30代に入ったばかりだったろうか。
委嘱作品の構想をじっくりと練るために、どこか人里離れたところに籠もりたくて、伊豆高原にある先輩の別荘を使わせて頂いたことがある。
2月の終わり頃か、3月に入っていたか。
まだ雪も残る寒い頃。
その別荘へ向かう時、小田原辺りで、晴れ渡った空に鮮やかに浮かび上がる富士山を右手に見ながら高速を降り、熱海の手前の真鶴という所にさしかかったら、突然、海が眼前に出現した。
思わずワクワクして、ずっと運転してきたこともあってそこで休憩を取ろうとクルマを降り、海辺に降りていった辺りで海に見とれて、どうしたわけか腰が抜けた様になってかなり長い時間その場に座り込んでしまった事があった。
自分に何が起きたのか分からないけど、学生時代にはヨットに通ったり、いつもの見慣れたはずの海だったが、久しぶりに海辺に来た新鮮さもあったのか、とにかく海に圧倒されてしまったのだ。
痺れた、というのか。
あのヴァイブレーションはなんだったのだろう。今でも鮮明に覚えている。
波打ち際に立って、ここまでが陸地、ここからが海、とその境目を眺めていたら、全体がまるで見えない、あまりの海のでかさと、まったく人の手付かず、人を寄せ付けないこの巨大な存在に圧倒されたのだ。
すげぇ、すげぇとズッと言っていて、いつまでもそこから動けなかった。
ズッと後になって、禅を求めているとはまだ気づかない時期に、何処か、ヒトの居ない所に行きたいのだと自分を理解した、その時すぐにその体験が蘇ったのだ。しかも強烈に。
ヒトがいない、は、ヒトを寄せ付けない、ヒトの手が届かない、だったのだ。
そして禅の今、あの時と同じ様な圧倒される予感を伴って、ある、とんでもない事実に気づきつつあるらしい。
とても言葉には尽くせないのだけど、これまで言葉を手放し、時間を手放し、全てがものすごい速さで変化している真っ只中に居ることに気づき、ようやくたどり着いた感のある、
『現成公案』
今の事実とその実相。
やはりそこも、いや、此処こそが、ヒトの居ない、ヒトの手の届かない、
『今』
だったのだ。
言葉にすることも、すでにもう違う。
まいったな。(>.<)
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