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ogralian

禅の命脈3

ある高名な禅僧が 「以前は時間に追われていたが、見性=悟りしてからは時間を使うようになった。」 そうだ。 何が変わるとそうなるのだろうか、ずっと長いこと不思議だった。 音楽は『時間の芸術』と言われる。 それほど音楽家にとって、一般的な時間という概念の使い方とは別に『時間』は特別な意味を持つ。 音楽にとって時間はテンポにも繋がり、フレーズの経過、あるいは時間の密度=音楽の密度そのもの、生命そのものなのだ。

音との距離にも直接に比例する。 それだけに、時間の秘密、時間という概念とは一体何だ! という謎をズーッと引きずっていた。 禅を修行すると、浮上してくる一つに、『今』という命題がある。 というより、禅は自己の『今』の事実に安住するということだから、当然 『今』とは? がつきまとい、寝ても覚めても『今』について考えることになる。

禅的にハッキリしているのは、認識できることはすでに『過去』であるという事。 という事は、一瞬前のこと、今、現実に目の前にある物、見える物のすべてが、それと認識された瞬間、瞬間に驚く速さですでに過去となっているという事になる。 未来は想像と予測、あくまで仮想でしかない。 では、『今』とは? 禅の祖録によると、 『取ることを得ず、捨つることを得ず、 不可得の中  只麼に得たり』 (ふかとくのうち  しもにえたり) 〜手に入れることもできず、捨てることもできない、得ることはできないのだが、まさに、只麼=認識の起きる直前の『今』に得た〜 といわれるほどに、『今』は捕まえておけない瞬間=そのもの、であり、刻々と、それほどの超スピードでの変化=無常であるという事らしい。 指を鳴らしてパチッと弾ける一瞬に、数百の変化があるといわれるほど。 ヒトの意識=認識が追いつかないので、多くの老師が 「今というのはわからない」 と言われるのだろう。 禅において、「わからない」がそのまま正解だというのはこの事だ。 わかりようがないのだ。 我々が『ヒト』の認識スピードだから。 そんなある時、いつものように 時間、距離、今 を探すとはなく考えて座っていた。 過去も未来も実は無いのだ。 存在しないのだ。 あるのは『今』とその連続。

それを外側から、二次元的に見ると『時間』という概念が生じる。 などなど。 そんな時に頭の中を上記の禅僧の言葉(時間を使うようになったと言った言葉)がよぎった。 突然、分かった! 『時間』は無いのだ。 存在しないのだ!

すべて人が作ったただの概念、観念なのだ。 だとすると、時刻はもちろん、日付も曜日も、月も年も本来は無い! という、当たり前のことに改めて驚く。 さらに坐に徹する、今に居続けてみると、驚いた事に、どうやら動いて見える物すべては、実は何も動いてないということになるのだ。 動く=物がA地点からB地点に移動する=動いて見えるのは、『時間はある』という前提で見えている世界であったのだ。 動いているのではなく、今の連続の中で 『変化』 しているだけなのだ! 個々に異なった速度で、それぞれ違う変化が起きていたのだ。 その意味で、『今のまま』がずっと続いている。 始まりも終わりもなく。

そういう『今』だとすると、確かにそこには事実だけがあって人がいない。 だとすると、正法眼蔵=道元にある様に、 〜船に乗って川を行くとき、人は岸が動いていると見えるけれど、水面近くを見れば動いているのは自分だと気づく。 とか、 〜薪が燃えて灰になるのではない。 薪には薪の、灰には灰の法位=事実がある。 とか、 〜人は年老いて死ぬのではない。 その時その時の事実があるだけである。 だから、生が死になるとは言わない。


などは、このことを言っていたのだ。 また、ある老師が、 〜諸行無常とは、何か一つのものが変化をする、ということではありません。 あらゆる物が、絶え間なく一斉に変化している様子です。 と言っていたのもこのことか! 世の中に止まっている、固定している物などない。 すべてが絶えず変化している。 その辺りが、時間の観念、概念がとれてみると気づくこと。 だが、まだ気づきであって、確信、実感ではないのだが、この気づきを先日の独参で老師に話してみたところ、 「いいところにいます」 といわれたので、当面は坐に徹して腹の底からこれに納得しなくてはならないようだ。 『言葉』と『時間』の概念、常識に、思っている以上に深く囚われている事がわかり、頭で理解することと、実感を持つことの開きも思っていたよりズッと根深い。 つまり、 ヒトの認識=自我がこびりついている。 コレがすべて落ちたときが、本来を本来のままで見れるのだとすると、それはまさに悟り、見性であり、彼岸(あちら側)と此岸(こちら側)の違いのような正反対であって、元々はその真っ只中に出てきた(生まれてきた)のに、物心ついたこと(自我が芽生える)と、人の中に暮らし、人の教育を受けてきた事で、全てが反対に見えるのがいつの間にか当たり前になっている(転倒夢想している)ことに、ようやく気づきつつ=元に戻りつつあるということになる。 誰でもが元々そうである筈の『本来』に。

解脱、自他不二、森羅万象と一体、といった仏法の境地もどうやらそこらにあるらしい。 人もあらゆる生き物もすべてが自然の一部であり、『空』という大きな『本来』の中で起きている単なる『現象』であるならば、当然いつかは縁が終われば消滅するだろうし、そんな中で我々人間が、釈迦の願い、気づき(悟り)、貴重な禅の智恵に習って、あらゆる現象を、ものを正しく見て、生命を正しく使わなければならないのかもしれない。

どうやら。




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