前回のブログでは、禅の命脈、その概要を書いたわけだが、釈迦の悟り=気づきについて→禅とは、坐禅とは何をするのか大まかに書いたにとどまった。
その総体を書くには僕自身まだ「途中の景色」だから、まだ役不足も甚だしい。
加えて、禅の用語=語句が中々に難物だし、これから書くが、そもそも言葉というものが限界にすぐに達してしまい、しかも実際の禅の真体はそのズッと先・・・ということになるので、果たして一体どこまで伝わるのか、検討もつかないのだけど。
前回に何度も書いた、「人の認識を超える」という禅の真体と、それに誰でもが気づくことを可能にする「智恵」としての禅。
それを得るまでの修行の過程で、誰でもがまず始めに遭遇するのが、
「言葉」あるいは「意味」の壁だろう。
実際多くの概念は「言葉」がもたらす。
例えば「海」。
海を知らない人はいないだろうが、同時に海を言葉で説明できる人もいない。
「海とはどんな形、姿をしているんですか?」
海にいて海を指さしてこれが海だという意外に説明しようが無いし、むしろ言葉としての「海」=海という概念、だけで普通は通用する、というか片付けているのが日常なのだ。
さらには、物や行為の名称だけでなく、味わいなどの感覚や感性の表現としても、殆どの場合は、その実体=事実抜きで、言葉だけで用が足りる事にしてしまう幽霊のような日常で生活している。
実際それほど言葉というのは便利だし、共通の概念、認識を生み出し、共有するための大変有益な道具ではあるが、その奥行きは浅く、同時に限界も早い。
多くは同時に解釈や意味、さらにはイメージや記憶などといった多くを伴う。 そういった言わば尾ヒレがついて初めて「言葉」として一人歩きをし、何かをヒトに伝える道具になる。 便利な道具ではあるが、時にこれが「概念」又は「価値観」を勝手に「解釈」したり、ヒトとの微妙なズレを生じ、誤解や誤った理解にも繋がる。 それが極度になると、イメージから妄想を生み、実体のないただの言葉に振り回され、悩んだり、酷いときにはノイローゼにすらなり得る厄介な物でもある。 要は、それほどに「言葉」、「意味」、「概念」に振り回されて日々を送っている。 又は、影響を受けている。 時にはとても努力してまで、単なる「言葉」を求めることもある。
何かを求めて止まず、ズッと悩んだあげくに謎が解けた→実はタダの言葉に行き着いただけ。
ということもよくある。 それほどに「努力」して、時にはヒトを介して出会い、蓄積した言葉を、道具として日常的に、又はことあるごとに日々使う。
対して、
「努力して山を登るのでなく、努力を辞めて山を降りる修行だ」と言われるように、禅はこういった「努力」とは全くの逆方向にある。
禅修行の一つの段階は、この「言葉」を捨て、言葉、概念の呪縛から解放され、
「本来は自己の事実だらけの真っ只中」
に気づくことにある。
「言葉」を、音に意味、概念をくっつけた、タダの道具としての本来の「言葉」の役割りに留め、言葉の限界を素直に受け入れる、
ということのようだ。 実際、ヒトが本来持っている感覚、感性、感情はとても言葉では表現しきれないほど深くて広い。 しかも、言葉ではとても追いつかないくらい、感じることは速くて、しかも常時変化しているのだ。 それに気付くだけでも、言葉は 「分からない」 ままにしておけば(放っておく=捨てる)、 それだけ本来の自己の持つ素晴らしい感性が溢れ、流れ出ることになり、味わいも、意味も、イメージもズッと直感的で豊かに深くなる。 これこそがまさに『坐禅』の状態であり、『禅』の様態そのもの。 これだけ、単に言葉やその意味を手放し、イメージや妄想から離れるだけで、ヒトは多くの余分な悩みや精神の疲労、ストレスから解放されるだろう。 更には符号、名称=個人という荷物も降ろす事ができる。 だが、無くなるわけではない。
(この、有る、無いも実はタダの言葉でしかなく、禅では全く違う使い方=意味を持つのだが、これは別件として後述)
依然として言葉は内在し、あるいは外在して日常的には常時お目にかかり、使うけれども、それに引っかからなくなる、と言ったほうが正確か。
というわけで、日常、如何に「タダの言葉」に捕らわれているか。
に気づくことは、禅修行最初の収穫であったのである。
次回は、『時間』の真相について。
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